飛田新地
飛田新地、現在は世界中から観光客が訪れる決して通常の観光案内に紹介されない場所であ。 | |
「鯛よし百番」の斜向かいに、「慰霊碑」 と 「慈母観音 (無縁仏)」があります。碑には、「慈悲共生」と刻まれています。 | |
飛田 慈母観音は、大阪市西成区の山王3丁目にある慰霊碑と観音像。そしてその場所は飛田遊廓の発祥の地である。 | |
慰霊碑・慈母観音は、いろいろな事情により飛田遊廓で働き、居住をしていた多くの男女 (遊女) の方々が様々な事情や世間の風評で、遊郭外に移住することもままならず亡くなられた霊が安らかなれと願い建てられたものです。(案内板より) | |
慰霊碑「慈悲共生」は、飛田遊廓で働いていた遊女たちが遊郭内で亡くなった霊を弔うために建てらたそうです。 以前は高野山のお寺付近に無縁仏としてあったものの、数年経ったら所在不明となったとのことです。 その後、飛田新地料理組合が再建し、2002年に現在の場所に移設されました。 | |
案内板には、「飛田(遊廓)新地料理組合の歴史」が書かれています。 明治45年の「南の大火」によって、難波新地が消失し、その後、原っぱ同然だった天王寺東松田西松田の一部に通称「飛田遊廓」が指定されました。戦中は大きな被害を受けましたが、戦後は赤線として復興しました。昭和33年「売春防止法」後は、料理組合として誕生しました。 | |
遊女たちの霊を供養するために建てられた観音像は母子像であり、子供を抱く母親の姿をしています。 遊女たちは子供を持つことができなかったり、持っても育てることができなかったりしたため、この観音像に寄り添って心の安らぎを求めたと言われています。 | |
飛田遊廓は、1912年に難波新地乙部遊廓が全焼するミナミの大火が発生したことをきっかけに、1916年に阿倍野墓地北西の低地に築かれました。 大正時代には100軒あまりの妓楼が並び、昭和初期には200軒を超える日本最大級の遊廓となりました。 1958年の売春防止法施行以後は料亭街『飛田新地料理組合』となりましたが、現在も転向以前の雰囲気を残しています。 働いている女性は「仲居」と呼ばれ、客は「お客様」と呼ばれます。 | |
飛田遊廓は戦災を免れた唯一の廓であり、かつては巨大なコンクリート壁に囲まれていました。これは往年の楼主が娼妓の逃亡を防ぐために作ったものでしたが、関東大震災で吉原の娼妓が集団焼死したことを受けて、人道問題として大阪市会で議論され、門を開けることになりました。 | |
飛田新地の南端には、公衆トイレがあります。その看板は「かわや」と書かれています。 | |
トイレの入口には、「飛田新地料理組合」と書かれた石柱が置かれています。 | |
トイレの開放時間は | |
トイレの周辺には、ベンチや自販機があって、ちょっとした休憩所になっています。利用者は男性ばかりです。 | |
百度石(天龍大神) | |
飛田の近くに有る小さな神社です、黒龍大神と白龍大神との3つでセットの様です、入口に門が有ります、綺麗に手入れされている神社です。 | |
五龍神結界 | |
その昔、金塚、山王、飛田には地域を守る、天龍、黒龍、白龍、銀龍、金龍の五龍神がいたと言われています。 明治末頃まで、この辺りには大きな池があり、大蛇が住み着いて住民から『池の主』として崇められていました。 池の周りに大蛇を守護神として、天龍、白龍、黒龍大神の三つの祠を建て、その信仰のおかげ大きな戦災にあうこともなく、大きな災いがなかったといいます。 第二次世界大戦の空襲でも周囲は被害を受けたが、ここだけは奇跡的にそのままであったそうな。 またこの周辺には、良水の湧く井戸や水脈が多くあり、明治から昭和初期に水神を祀り、『金塚、山王、飛田五龍神』と呼ばれるようになりましたとさ。 要するに五つの龍神が守護しているってことさ。 | |
飛田新地の南東の角地に料亭「百番」があります。木造2階建、入母屋造、桟瓦葺の建物は、登録有形文化財に指定されています。 | |
最後はここで食事をしたいと歩もいます。 | |
枚数 | モーション | ハイライト 雰囲気を見せる | セル オープニングに使用 |
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1 | 4秒 | ||
4 | 16秒 | ||
8 | 32秒 | ||
15 | 1分 | ||
30 | 2分 | ||
45 | 3分 | 3分 | |
60 | 4分 | ||
75 | 5分 | ||
90 | 6分 | ||
105 | 7分 | ||
120 | 8分 | ||
135 | 9分 | ||
150 | 10分 | ||
225 | 15分 |