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ディープエリア黄金町を学ぶ

ディープエリア黄金町を学ぶ

 京急線の黄金町駅で降りると、高架の線路下にフェンスが続いていた。人物像、動物、抽象的なデザイン。豊かな色合いで様々な絵が描かれている。同じ形の建物がずらりと並ぶ。一見、質素に見えるが、実はアートのスタジオだ。中では映像が流れていたり、絵が飾られていたり。
大岡川沿いに広がる横浜市中区黄金町の住民は、
2024年現在わずか240人ほどの小さな町です。
黄金町とは一般的には京浜急行電鉄黄金町駅のある南区から
初音町、黄金町、日ノ出町までの大岡川沿い一帯をさす。
『消えた横浜娼婦たち』にも語られているが、この一帯でもともと売春を行っていたのは、 戦禍により伴侶も住む家も失った女性たちだ。
彼女らは、地域住民の理解と協力の下で私娼を始めさせてもらう代わりに、周辺の飲食店や旅館に利潤をもたらし ていた。

そこには、貧しい時代ならではの相互扶助の精神が息づいていたのだ。
この地域は戦前から大岡川の船運を活用した問屋街として栄えたが、
終戦後は高架下にバラック小屋が建ち人々が移り住んできた。
次第に飲食店に変わっていき、中には女性が客を取る店、
いわゆる「ちょんの間」が現れ、いつしか関東でも屈指の「青線地帯」として知られるようになる。
現在、この街に放置されたままの特殊飲食店の店舗は、終戦直後のバラック小屋に端を発している。
日ノ出町周辺や黄金町付近の大岡川沿岸にはバラック群が
建ち並び、スラム街となった。
さらにはしけを転用した不法の水上ホテルが28隻も浮いていたという。
水上ホテルは1954年に強制撤去が行われ消滅しました。
「青線地帯」「大岡川スラム」などの名称で、
悪名をはせる一方、
戦後の黄金町はヒロポンやヘロインといった麻薬密売の温床でもあった。
昭和20年代は、大岡川を境界に密売組織による縄張り争いが頻発した。
警察官の巡回すら身の危険を感じてできない程の場所であったという。


特殊飲食店(外観や届け出は飲食店や旅館を装っているが、実際は売春を目的とした店)街は
1958年(昭和33年)の売春防止法施行後、一旦大人しくなったが、その間隙を縫って麻薬の売買が盛んになった。
その臨界点は1962年(昭和37年)7月6日で、警察の取締で供給源を断たれた200人余りの中毒者が路上に飛び出し、禁断症状を起こした。
この騒ぎは社会問題になり、街灯の整備やバラックの撤去、麻薬の更生施設の設置などの施策が行われ、麻薬禍は過去のものとなった。
1960年代(昭和40年代)までは大岡川の水を利用して多くの捺染工場が立ち並び、横浜名産のスカーフ等を川で染めたため赤や黄色や青のインクの色に染まり常にインク臭かった。
このため当時の大岡川で子供は遊ぶどころか敬遠していた。高度経済成長期になると、工場排水の垂れ流しや生活排水によって川からは魚が姿を消しどぶ川になった。
その後、下水道の整備や市民の川の環境保全活動により、水質が改善されたため、現在は魚、鳥類など多くの生き物を見ることができる。
2002年(平成17年)京急高架補修工事により高架下の小規模店舗(約100店)が立ち退かされた。
その結果周辺地域に拡散・拡大し、最盛期には270店舗にもなった。
昭和20年代から40年代は日本人娼婦しかいなかったが、
昭和50年代に入ると台湾人女性の姿を目にするようになり、続いてタイ人女性が増えていった。
その後娼婦の多国籍化が進み、平成に入ると川崎市堀之内の「ちょんの間」街や相模原市上鶴間本町の「たんぼ」同様、中国や東南アジア、中米出身の女性が主体となり、日本人女性は少数派となっていた。
24時間営業の店が多かったため、のべにすると計算上約1000人の外国人売春婦が稼働していたとされ]
2002年(平成14年)、環境悪化に苦慮する地域住民によって「風俗拡大防止協議会」が結成された。
2009年(平成21年)の「横浜開港150周年」に向けて街のイメージアップを図るため、2005年(平成16年)1月11日より、「バイバイ作戦」と名づけられた警察による集中的な摘発が始まった。
機動隊の大型車両で突然乗り付けた多数の警察官が地区内へ突入し、風俗嬢らが叫び声を上げる中、大規模摘発が行われた。同年4月、県警は近くの町内会館や京急高架下に「歓楽街総合対策現地指揮本部」設置して監視を続けた。
 機動隊を街に24時間常駐させ、訪れた客には片っ端から職務質問する。まず客足を断つことで、店の営業を苦しくさせ、250以上もあった売春宿は追い込まれていった。
その結果遊びに来る男性が激減し
同年8月までに全店が閉店することとなった。
しかし、違法風俗店を追い出したが、そこで働いていた売春婦たちはどうなったのだろうか。
それしか稼ぐすべを知らない彼女たちはまた近くの地で男相手に春を売る。
オーナーたちも同様である。また同じような仕事を場所を変えて行う。
2006年(平成18年)、文化芸術振興拠点の運営団体に選定されたBankART1929が、6月30日に同施設に「BankART桜荘」をオープン(2010年4月活動終了)。
アーティストが創造、発表、滞在する「創造界隈」を形成する事業の一環としてスタートした。
アーティストや地域住民らが拠点に常駐し芸術活動を行うことで、違法な小規模飲食店等がひしめいていた同地域の健全化の先駆けとなった。
飲食店家屋の取り壊しや新築マンションの建設工事が相次ぐ一方、
2007年中頃から、ちょんの間を改装した店舗で、
若者向けのバーやカフェ等の飲食店がオープンし始めました。
2008年(平成20年)京浜急行電鉄と横浜市の協力により高架下に文化芸術スタジオが建設され、アートを生かした新しいまちづくりを目指し、地域住民、行政、警察、企業、大学、美術関係者が集まった実行委員会によって「黄金町バザール2008」が開催された。
その後、継続的かつ総合的にまちづくりを推進するために「特定非営利活動法人黄金町エリアマネジメントセンター」が2009年4月に設立。
黄金町エリアマネジメントセンターでは、黄金町バザールを毎年開催している他、毎月第2日曜日にはオープンスタジオというイベントを通じて、日常的なにぎわいの創出と地域・アーティストの交流の促進を図っている。
また、安心・安全なまちづくり活動を先導する協議会が行う活動の企画・運営を支援するとともに、協議会の各部会が実施する様々な取組みにおいて、警察立ち会いの下、協働を図り安全・安心なまちづくり活動に取り組んでいる。
現在中年のおばさんや外国人がスマホの地図を片手にうろうろしている姿を見る事ができます。
「最近、店舗の一部がレンタルルームとして貸し出されています。これが犯罪の温床になりはしないか、いずれちょんの間として復活するのではと、住民は不安を隠しきれません」
「黄金町のレンタルルームに住所不定者を住まわせ、生活保護給付金を詐取」という内容だ。
ちょんの間の灯りが消えても、この街には人間の欲望が深く根付いたままなのである。